ゆるやかな年収アップが好ましいはずだが…

私たちの幸せの損益分岐点は、いったい、どこにあるのだろう。私たちは、どの程度の年収で、どの程度の労働時間を引き受けることが、望ましいのだろうか。年収と労働時間の最適なバランスは、どこにあるのだろう。

生活水準を高くした後に、その水準を下げるのは苦痛である。幸福な人生を送るためには、少しずつ生活水準を上げていくほうがいい。そのためには、年俸制よりも年功賃金のほうが望ましいかもしれない。しかし、ある程度まで年収が増えると、それ以上に年収が増えても、幸福度はなかなか上がらないようである。そこで、次のように発想してみてはどうだろうか。

幸福度の高さを維持するためには、最初から高い年収を得る一方で、そこからあまり収入が上がらない生活のほうが、人生の幸福の総量は多いかもしれない、と。もし労働時間が一定であるとすれば、最初に500万円の年収を得て、最後に600万円の年収を得るというゆるやかな年収アップが、人生の幸福量を最大にするかもしれない。

ところが、次のような統計的事実がある。

長期的にみると、年収と幸福度のあいだには、何も関係がない。このパラドクスは、経済学者のリチャード・イースタリンの発見にちなんで、「イースタリン・パラドクス」と呼ばれている。

植物とビジネスマン
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長期的には所得と幸福度には関係がない

イースタリンは、1974年の論文で、次のように主張した(*2)

まず、ある国のある時点をとってみると、所得の高い人は、所得の低い人よりも幸福度が高い。その意味では、所得が高いほうが望ましいといえる。ところが国際比較をすると、豊かな国と貧しい国の幸福度の差は、一国内の幸福度の差よりも小さい。つまり幸福度の問題は、まずもって、一国内の相対的な所得差の問題だ、ということになる。

イースタリンはさらに、次のようなパラドクスを発見した。米国の幸福度調査で、「大変幸福である」と答えた人の割合は、1946年から57年にかけて上昇したものの、63年から70年にかけて低下した、という事実である。豊かな社会の到来とともに、米国では所得の上昇が、かえって幸福度の低下を招くようになった。

このパラドクスについてイースタリンは、1995年の論文(*3)でさらに検討した。米国と欧州9カ国と日本(計11カ国)を対象に、所得と幸福度の長期的な関係を調べた。すると、米国と日本では、所得が増えても幸福度は上昇していないことが分かった。米国と日本では、所得の上昇は、統計的に有意なかたちで幸福度に影響を与えていなかった。

また欧州では、五つの国で同様の結果となり、二つの国で正の相関(あるデータの値が高くなると、もう一方のデータの値も高くなる傾向があるとき、「正の相関」があるという)がみられ、残り二つの国では負の相関がみられた。以上の結果から、イースタリンは、世界の長期的なトレンドとしては、所得が増えても幸福度は上昇しない、と結論づけた。これがイースタリンのパラドクスである。

(*2)Easterlin, Richard A.(1974) “Does economic growth improve the human lot? Some empirical evidence,” In P. A. David and Melvin W. Reader eds. Nations and Households in Economic Growth, New York: Academic Press, pp. 89-125.
伊藤正憲(2013)「幸福のパラドックスについてのノート」『京都女子大学現代社会研究』第16号、119-130頁
(*3)Easterlin, Richard A.(1995) “Will raising the incomes of all increase the happiness of all?,” Journal of Economic Behavior and Organization, 27(1), pp. 35-47.